和菓子と京野菜を融合した発想の妙

末富 本来は亀屋末富というのが正しく、亀末で修業した初代が、明治二十六年(1893)に独立した。その当時は、蒸菓子や干菓子を茶人や寺社のためにつくっていたという。
 そうしたなか、終戦直後に一般向けの日常の菓子として発案されたのが、末富の名物菓子ともなった野菜せんべい。日持ちのすることが評判となって、よく売れるようになった。それまでの玉子煎餅に巨椋池のレンコンや堀川ゴボウ、鞍馬の木の芽などを薄くして入れたもの。和菓子と京野菜とをうまくドッキングさせた、いってみれば発想の妙といえるが、それを京菓子として通用する商品として完成させるには、相応の工夫が必要だっただろう。もともと玉子煎餅というのは厚いものだったが、それを薄くしたのも末富が最初だった。
 先代は「真似されるようなものをつくらないといけない」と繰り返し言っていた。そういう努力と創意工夫が京の菓子舗の身上でもある。それでも、最近は玉子の味が変わった、つまりは鶏が変わったらしく、そういう原材料の質の変化は悩みのたねでもあるようだ。とはいえ、時代の変化や困難にも対応しながら、伝統の質を守っていく姿勢を堅持している。講演会などを一年間のうち一ヶ月くらい行うほど啓蒙活動にも力を入れており、和菓子の将来のために積極的に貢献している。

和菓子の食文化を伝えるのも老舗の役割

戦前は職人さんが大勢いるような和菓子屋でしたが、戦争で多くを失いました。戦中戦後は父母の二人で店を切り盛りし、都会のど真ん中で細々と東本願寺の御用を努めていた時期もありました。砂糖を床下に隠してまで商売をしていた時代もありました。そういう困難な時代を父がどのようにして乗り越えていったかを見てきた私は、いまもそのときの気持ちを大切にしたいと思っています。
 店を大きくしようとはとくには思ってこなかったのですが、結果として大きくなってしまって、これでいいのかという気持ちがあります。つまり、企業になっても家業としてどう残すかが大切なことだと思っています。和菓子というのは、どこまでいっても職人たちによる手づくりのものですし、菓子屋はどこまでも家族工業でしかないのです。その意味では、職人を育てるのも大事な役割であり、渡り職人ではなく、子飼いの職人を大切にするのが、当店のこだわりといえるのかもしれません。
 京の老舗が敷居が高いと感じるのは、ある意味では当たり前です。京菓子であれば、それは食文化を越えた文化の世界が広がっているわけで、その世界をおもしろいという感性こそが必要なのです。しかしながら、そのおもしろさを知ってもらう努力を、私たちは菓子屋の役割として果たさなければならず、多少なりの努力はしているつもりでおります。

店舗情報

創業 明治26年(1893年)
商号 株式会社末富
所在地 京都市下京区松原通室町東入ル
電話 075-351-0808
FAX 075-351-8450
営業時間 午前9時~午後5時
定休日 日曜・祝日
末富 地図 末富 外観

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